「中今(なかいま:過去、現在、未来が畳み込まれている今この瞬間)を大切に生きる」ことを心がけています。
今井 航一
パラアスリート
2024年7月入社
パラアスリート採用
日本パラカヌー連盟、香川県パラカヌー協会所属
香川県在住(活動拠点)
広島県出身
1974年4月27日生まれ
これまでのキャリア
2019 | 国内大会:
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2020 | 日本代表、強化指定選手 国内大会:
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2021 | 日本代表、強化指定選手 国内大会:
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2022 | 日本代表、強化指定選手 国際大会:
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2023 | 日本代表、強化指定選手 国内大会:
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2024 | 日本代表、強化指定選手 国内大会:
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MODECを選んだ理由 懐の深さに惚れて
前職では、カヌースプリント競技のパラアスリートとして競技活動に専念しておりましたが、パリ2024パラリンピック出場へのチャレンジを終えた後は、世界の舞台で活躍できる次世代選手の育成と強化に、コーチとして関わりたいと考えておりました。東京2020パラリンピックの開催を契機に、日本でもパラアスリート雇用という考えは一般的になりつつあるものの、アスリートを指導する側のコーチ雇用という発想は浸透していません。パラスポーツ競技人口に対するパラスポーツ指導者不足も大きな課題であり、次の世代を育てていく環境の充実は、パラスポーツ界でも強く求められていることではあるのですが、その実現に向けた取り組みはまだまだこれからです。そのような状況もあり、私自身がこれまで培ってきた競技力を次の世代に還元していきたいという思いは、受け入れられる場所もなく、暫し彷徨っておりました。
そんな中、面接を受けたMODECに「むしろコーチという立場に注目している」という考えを示して頂き、MODECは、これまでパラスポーツと関わりがなかったにも関わらず、時代のニーズを捉える千里眼的要素を持ち合わせていると感じたことが、入社への決定打となりました。
私の経歴 神のお導き
私は、生まれてから大学入学まで広島市内で育ちました。その後は県外にも出ましたが、広島の食品メーカーで営業職をしていた39歳の時に左足に発症したがん(悪性肉腫)により、左大腿半分を切断し、障害者となりました。スポーツを始めたきっかけは、長らく抗がん剤治療を受けたことで、身体にダメージを受けたため、それを回復させる「健康管理」が目的で、最初は「一人で手軽にできる(だろう)」という理由で、退院の1週間後から水泳を始めました。気に入ると、とことん熱中してしまう性格も手伝って、今思えば、当時は無意味に毎日泳いでいたような気がします…。
水泳を始めて2年経った頃、知り合いに「全国障害者スポーツ大会の香川県予選大会があるから出てみたら?」と声を掛けられ参加したところ、運良く県代表に選抜され、全国大会でも運良く50m自由形で優勝することができました。というわけで、パラスポーツの第一章は水泳でした。
第二章がカヌーでした。退院から半年後、私は、鍼灸あんまマッサージ師の資格が取得できる医療専門学校で学ぶために香川県に移住していました。鍼灸あんまマッサージ資格を取得できる教育課程のある医療専門学校は非常に少なく、当時住んでいた広島から最寄りの学校が香川県の学校だったためです。そして、移住先の住まいから最寄りのプールに通い始めたのですが、そこで子供たちの水泳教室を主宰していた今の妻と出会いました。出会った当初、妻から高校時代にカヌー部だったこと、全国大会で優勝したこともあること等を聞いていましたが、前述した水泳の全国大会が終わった頃、ふとその話を思い出し、「カヌーに乗ってみたいな。どこか乗せてもらえる所ないかな?」と言ったのが、カヌーに触れるきっかけとなり、その半年後に本格的に競技者としての取り組みを始め、今に続く道となりました。
身体に障害を持つことがなければ、健康管理のためにと水泳を始めていなければ、医療専門学校に通うことを決め、香川県に移住していなければ、移住先の住まいから最寄りのプールに通い始めていなければ、そして高校時代にカヌー部だった妻がそのプールで水泳教室を主宰していなければ、妻に出会うこともなく、カヌーに出会うこともありませんでした。
そういうわけで、神のお導きとしか思えない「カヌーへの道」は、これからの自分が生きる道としか思えなかったのです。
印象に残る経験 すべてが貴重な経験
2018年に本格的に競技を始めた私が、初めて日本代表になったのは2020年でした。ただ、この時期は、ご存じの通りコロナ禍で、トレーニングすら思うように出来なかった時期であり、国際大会はすべて中止という状況でしたので、日本代表と言いながらも国際大会に一度も出場することができないまま1年が終わりました。
そして、翌2021年に再び代表に入り、まだコロナがくすぶってはいましたが、1年延期された東京2020の開催が決定し、東京2020パラカヌー競技への出場権をかけた世界最終予選は、ハンガリーで開催されることとなりました。初めて出場する国際大会が、東京パラリンピックへの出場権をかけた大一番となったわけで、しびれるほどの緊迫感がありました。ただ、緊張して力が発揮できないという状態ではなく、ほどよくピリピリしつつ、レースに挑むことができました。
私は、カヤック、ヴァーの2種目に出場したのですが、結果、得意種目のヴァーで東京パラリンピックへの出場権を獲得することができました。コロナ禍における東京2020開催への賛否の声、出入国管理を含め厳戒態勢が敷かれた大会運営、そのような状況下での戦いとなったこの世界最終予選は、いままで出場してきた国際大会の中でも、非常に印象的な経験でした。
また、それと同じくらい思い出深いのは、やはり、東京2020パラリンピックです。こちらもコロナ禍での開催ということで、ピリピリとした緊張感のある大会期間でした。とはいえ、世界中の選手が集結するスポーツの祭典であり、選手村では、様々な国の選手や、サポートスタッフたちとの交流があり、また、日本国内からサポートに駆けつけてくれた、たくさんのボランティアスタッフの皆さんとの交流も、非常に心温まるものでした。
レース自体は、やや天候に難はあったものの、あのとき自分が持っていた力はすべて出し尽くしてレースを終えた結果、12位という成績でしたので、なんの後悔もありませんでした。ただ、出場前までは、東京パラリンピックでカヌーでのチャレンジを終えるつもりでいたのですが、順位決定戦の最終レースを終え、取材エリアでインタビューを受けているときに、だんだん「次も目指したい。」という気持ちが高まり、気づけば「パリまで、チャレンジを続けます!」と口にしていました。
選手村での時間もとても印象的なものでした。パラカヌー競技の対象選手は、下肢障害者のみに限定されることもあり、通常、カヌーの国際大会会場では、それ以外の障害をもった選手を見かけることは皆無なのですが、パラリンピックにおいては、すべての競技の選手が集結するため、選手村においては、様々な障害を持った選手を見かけます。特に村内レストランでの食事の風景は、印象的でした。足を使って食事する選手など、障害特性が現れる食事風景を通して、社会の在り方、人とのコミュニケーションの仕方、人がその一生を生きるということの意味等々を深く考える機会を得ることができ、非常に貴重な経験をさせて頂きました。
心構え いまこの瞬間がすべて
神道に「中今(なかいま)」という言葉(考え)があります。いろいろ解釈があるようですが、個人的には、「過去、現在、未来が畳み込まれている、いまこの瞬間」と解釈しています。
私は、「中今を大切に生きる」ことを心がけています。命の危機に直面する病になり、それが原因で障害を持つに至って以降、そのことを強く意識するようになりました。
今この瞬間、目の前に現れること、それがどんなものであろうと、しっかりと向き合うことが、今を充実させるためのエネルギーとなるのはもちろん、より良い未来を創るためのエネルギーとなり、過去さえも遡って輝かせるエネルギーにもなり得るものだと思っています。これからも中今を大切に生きていきたいと思います。
今後の目標 社会のお役に立てるように
世界の舞台で活躍できるパラカヌー次世代選手はもちろんですが、健常カヌー選手のコーチングにも関わっていきたいと思います。時に過酷な自然環境と向き合うことが求められ、物事への対応能力も養うことのできる水上競技、人生を充実させるためのツールとしてのカヌーという観点で、選手一人一人に向き合っていきたいと思います。
また、レジャーで楽しむカヌーは、老若男女、障害があってもなくても、ゆらゆらと水の上を漂い、自然との一体感を味わうことができます。リラクゼーション効果もあり、多くの人に身近なものとなって欲しいものです。競技カヌーだけでなく、そんな心と身体に優しいカヌーをより多くの人々に広めていく活動に積極的に取り組んでいきたいと思います。
当社の本業とは違う角度からのアプローチにはなりますが、これまで障害者としてパラアスリートとしての経験から得られたこと、コーチとしての経験から得られることをより良い社会作りのための材料として還元していくことで、MODECの一員として、MODECと社会に貢献していきたいと思います。